愛 の 夢 ⑪
~ニューヨーク・ストラスフォード劇団~
「よぉ、テリィ。せっかくの『ハムレット』がおじゃんになって残念だったな。」
一人の劇団員が軽口を言いながらテリィの肩をポンポンと叩いた。
他の団員が慌てて「おい、止めろよ。こいつの気持ちも考えてやれ。」と止める。
「俺達にとってはスキャンダルも人気のうちだぜ。それにしても相手があのアードレーの夫人とは超大物だな。さすがテリュース・グレアムさ。俺達とは相手も違う。」
そう言い終わらないうちに彼はテリィのパンチで向うの壁まで吹っ飛んでいた。
「テリィ、やめろ!これ以上、問題起こしたら厄介だぞ。それでなくとも団長が問題収拾で走り回っているのに。シカゴ市長全面バックアップの劇場のこけら落しがスキャンダルのせいでキャンセルになったんだからな。団長も面子が丸つぶれさ。お前、覚悟しておいた方がいいぞ。」
もう一人がテリィを諌めた。
「わかっている。全部、俺のせいさ。くそっ!」テリィはそう吐き捨てた。
(キャンディ、どうしている?俺を許してくれ。)
あの記事が出てから、テリィは何度もシカゴに行こうと思った。
しかしどうしても行けなかった。
行ったところでどうなる?
かえってキャンディを困らせるだけだ。
アルバートさん。
彼はあの記事を信じただろうか。
いや、きっとキャンディが本当のことを話しているはずだ。
アルバートさんならキャンディの言うことを信じてくれるはずだ。
今はそう信じるしかなかった。
「テリィ。」背後から心配そうな声がした。
「スザナ・・。来てたのか。」
「あなたのことが心配になって。この頃、荒れてるって聞いたから・・。」
「あんなことがあったんだ。荒れて当たり前だ。」テリィは素っ気なく答えた。
今、彼の心の中にはキャンディのことしかない。
それはスザナにも痛いほどよくわかっていた。
「キャンディは・・、大丈夫だと思うわ。アルバートさんはとても彼女を愛しているから・・。」
「なんでそんなことがわかるんだ。」テリィは憮然としていた。
「結婚式の時にね、そう思ったのよ。とても幸せそうな二人だったわ。お互いをとても
信頼して、愛し合っているなって感じたの。あなたは出席しなかったものね。あなたも
行っていればよくわかったと思うわ。そうすれば、今回のようなことはなかったかもしれないわね。」
スザナは寂しそうにテリィを見たが、彼はその言葉に黙り込んだ。
(あの時、行っていれば諦めがついたってことか?二人の姿を見ていれば、本当に俺の
この気持ちが整理できたとでも?そんなことは絶対無理だ!)
「ねぇ、テリィ。人は皆、自分の幸せを求めるものよ。でも、人を犠牲にして成り立つ
幸せは本物ではないわ。それは、私が一番よく知っている。」
「スザナ・・。」
彼はスザナが話し出した真意がよくわからなかった。
「私はあなたとキャンディの幸せを奪ってしまった。」彼女は唇を噛み締める。
「・・・。あの時、君が助けてくれなければ今俺はこうしていない。二度と舞台に立つ
こともなかっただろう。」
「それでも、あなたはキャンディと二人で幸せに暮らしたでしょう。キャンディは、仮に片足を失ったあなたでも愛したと思うわ。」
突然のスザナの言葉に戸惑いながらも、彼はじっと考え込んだ。
(そうだ・・な。あいつはそんなやつだ。俺も一時的には荒れたかもしれないが、結局はあいつの笑顔に勇気づけられて一生懸命生きていっただろう。)
そんなことを思ううちに、やがてささくれたテリィの心は穏やかになっていく。
気がつけばスザナが泣いていた。
「ごめんなさい。私が身を引いていればこんなことにはならなかった。あなたとキャンディはずっと幸せに暮らしていけたのに。あなたもキャンディも苦しまずにすんだのに・・・。」
スザナが身を引いていれば?いや、違う。彼女は俺を救った。けれど、それが彼女なりの俺への愛だったんだ。俺は・・、いつもそれを負担に思ってきた。
自己犠牲ばかり考えて、本当に彼女に対して正面から向き合ったことがあっただろうか。
もやもやとした闇の中で、テリィは何かが見えてきたような気がした。
どんなに足掻いても過去は取り戻せない。
キャンディと共に過したあの頃にはもう戻れないんだ。
俺は・・いったいいつまで過去に縛られて生きているのか。
俺を救うことがスザナの愛ならば、俺のキャンディへの愛は・・・。
スッとテリィが立ち上がった。
「スザナ、ありがとう。君の言葉で目が覚めたよ。」
「えっ?」
「行くところができた。必ず君の元へ帰って来る。待っていてくれないか?」
荒れていたテリィの目に輝きが戻る。
スザナはそんなテリィにただただ黙って頷いた。
ハッピー診療所は騒然とした空気に包まれていた。
アルバートが真っ青な顔でキャンディを抱えて来た時、マーチン先生はいったい何事が
起こったのかわからなかった。
初めて見る正気を失ったアルバートの表情。
そして血の気のないキャンディの顔。
それらを交互に見やり、マーチン先生は何かを感じた。
しかし、話をしている暇はない。
それからの彼の行動は早かった。
素早くキャンディをベッドへ移すと看護婦に何かの指示を出した。
「妊婦が雪の中に何時間も佇んでいただと!?全く、信じられんことだ!死にたいのかね!」
マーチン先生はテキパキと処置をしながらアルバートの話を聞くと、そう捲し立てた。
「肺炎を起こしている。身体も衰弱しているようだし、何よりも胎児が心配だ。残念ながらわしは産科医ではないんでな。今、近くの産科医を呼んである。ハウエルという優秀な医者だ。もうすぐ来てくれるだろう。」
そう言うと言葉を発することさえ忘れたようなアルバートの肩をたたき
「噂はいろいろ聞いた。なんせここの患者はおしゃべり好きでな。しかし、今はキャンディのことだけを考えるんだ。いいね、アルバートくん。」
アルバートはただ頷くしかなかった。
「申し上げにくいのですが、母子共に非常に危険な状態です。妊娠初期というのはそれでなくとも不安定な状態で、普通は大事にするものです。特に身体を冷やすことは絶対にいけません。それが・・・雪の中とは・・・。」
産科医のハウエルは呆れたように言った。
「おまけに母体は肺炎を起こしています。全ては母体の体力と生命力の勝負でしょう。」
ハウエルの言葉にマーチン先生も沈痛な表情を見せた。
その時、アルバートがとった行動にそこにいた誰もが息を飲んだ。
「お願いです!何としても、何としても彼女を助けてやって下さい!!」
彼はそう言うなりその場にひざまづいたのだ。
これが・・・あのアードレー一族の権力の長、その人なのか?
呆然とする人々の中、一番初めに我に返ったのはマーチン先生だった。
「アルバートくん、顔を上げるんだ。キャンディはそんなことを望んではいないはずだ。わしらは全力で頑張っている。キャンディもお腹の子供もそうだ。君がすべきことは、ただ彼女と子供のために神に祈ることだ。ちがうかね?」
マーチン先生はそう諭した。
「彼女をここまで追い詰めたのは・・・僕なんです。」
懺悔でもするかのようなアルバートの背中を、マーチン先生が優しくトントンと叩いた。
その夜、キャンディは苦しい呼吸と高熱に襲われていた。
そんな彼女をまんじりともせず見守り、祈り続けるアルバート。
そんな中、キャンディは夢を見ていた。
咲き誇るいっぱいのバラ。むせ返るような香り。
真紅、白、ピンク・・色とりどりの花の香りに誘われ、駆けて行くと懐かしいバラが・・・。
スウィート・キャンディ・・アンソニーのバラだ。
ここはアンソニーのバラ園?
スウィート・キャンディに囲まれて一人の少年が立っていた。
金色の髪、青い目。
アンソニー?
アンソニーなのね?やっと会えたんだわ。
アンソニー!
キャンディが近づこうとすると、アンソニーは寂しそうに微笑んだ。
“キャンディ。君はまだ来ちゃいけない。”
“どうして?私達、やっと会えたのよ?”
“君にはまだ大切なものが残っているだろう?僕はいつでも君のそばにいるよ。”
そう言うとアンソニーは静かに消えていった。
「アンソニー!行かないで!!」
夢中で叫び、彼の消えたその場所を必死で探す。
“ママ・・・。”
気がつくとすぐ傍に小さな男の子がいた。
やはり金色の髪に青い目。
“ママ、帰ろうよ。こっちだよ。”
その男の子はぎゅっとキャンディの手を握った。
キャンディはその子に導かれるまま、一歩また一歩と今来た道を歩き出した。
・・・ディ。キャンディ・・。
遠くから自分を呼ぶ声が聞こえる。
誰?私を呼ぶのは。
その声は次第にハッキリ大きくなっていった。
「・・ンディ・・・。」
あぁ、懐かしい声。アルバート・・・。
ずっと私を呼んでいたのはアルバートだったのね。
“ほら、パパが呼んでいるわ。”
そう言いながら横を見ると、もう誰もいなかった。